ハイレグ水着は女性用ワンピース水着の一形態であり、ハイレグは「脚を長く見せる」「官能性を強調する」ためのカッティングを持ったデザインであり、ワンピース水着以外にもレオタード、体操着、下着などで使われます。1980年代にハイレグ水着が世界的ブームとなりました。

女性用ワンピース水着とハイレグ水着
女性用ワンピース水着とは
女性用ワンピース水着(one-piece swimsuit)とは、トップ(胸部)からボトム(ヒップ)までを一体化した構造のスイムウェアで、身体全体を覆うデザインが特徴です。現代では、クラシックで上品な美しさとスポーティな魅力を兼ね備えたワンピース水着が再評価されており、さまざまなデザインが登場しています。

ハイレグとは
ハイレグ(ハイレッグ)は、脚ぐり(足の付け根部分、レッグホールとも言う)がウエスト寄りまで非常に深く切れ上がっている衣類のデザインを指します。主に水着やレオタード、体操着、下着などで使われるスタイルです。ハイレグ水着は単なる水着ではなく、女性の身体表現や性的自己主張の象徴としても捉えられます。

女性用ワンピース水着の歴史
1900年代までの水着
ワンピース水着は1900年代半ばに登場し、当時は「マイヨ(maillot)」と呼ばれていました。1900年代初頭、女性は水泳の際に、かさばるワンピースとパンタロンの組み合わせを着用することが求められていました。

1907年、オーストラリアの水泳選手で映画女優であったアネット・ケラーマンは、レギンスと短いスカートが付いた女性用ワンピース水着をデザインし、ワンピース水着ブランド「アネット・ケラーマン」として販売しました。ワンピース水着は当時の女性の間で人気となり、1910年までにヨーロッパその他の地域で女性の水着として受け入れられました。

1912年オリンピックで正式採用
1912年ストックホルム夏季オリンピックでは、男子だけだった水泳競技に初めて女性が参加し、女子100m自由形、女子4x100m自由形リレーなどが実施されました。そして、女子用ワンピース水着が公式衣装として認められました。

Swimming at the 1912 Summer Olympics – Women’s 100 metre freestyle
https://en.wikipedia.org/wiki/Swimming_at_the_1912_Summer_Olympics_%E2%80%93_Women%27s_100_metre_freestyle
1920年代:ノースリーブ型水着
1920年代から1930年代にかけて、人々は銭湯やスパで「水浴び」から「日光浴」へと変化し始め、水着のデザインも機能性重視から装飾性重視へと変化していきました。

女性用水着のネックラインは背中で深く開き、袖は姿を消し、両脇は切り取られてタイトになりました。特にラテックスやナイロンといった新しい衣料素材の開発に伴い、水着は徐々に体にぴったりとフィットするようになり、肩紐は日焼けのために下げられるようになりました。

脚線美を強調するデザインの登場
「ハイレグ」という言葉が無かった時代に、脚線美を強調するデザイン(ハイレグの原型)が注目されるようになったのは、当時のハリウッド女優とオリンピック選手の活躍によるものです。
1950年代:エスター・ウィリアムズ
ハリウッド女優のエスター・ジェーン・ウィリアムズ(Esther Jane Williams、1921年8月8日 – 2013年6月6日)は、1938年には全米大学選手権において15歳で当時の世界記録を更新した元女子競泳選手です。

その後、1940〜50年代に水中ショー(後のシンクロナイズドスイミング)で活躍しました。
彼女が出演した映画の中で、彼女の水着姿が特に印象的なのは、1952年のハリウッド映画「百万弗の人魚」(Million Dollar Mermaid)です。この作品は、前述のアネット・ケラーマンの生涯を描いたもので、ウィリアムズは主人公のアネット・ケラーマン役を演じています。
映画の中でウィリアムズが着用した水着は、当時としては大胆なデザインであり、彼女の美しさと水泳技術を際立たせるものでした。特に、光沢のある素材や体のラインを強調するカットが特徴的で、彼女のシンクロナイズドスイミングのシーンと相まって、観客の注目を集めました。
彼女が出演した水着映画は、後のハイレグ水着のデザインに影響を与えたとされています。

1950年代:ローズ・マリー・リード
革新的な水着デザイナー
カナダ生まれのアメリカ人水着デザイナーのローズ・マリー・リード(Rose Marie Reid、1906年9月12日 – 1978年12月16日)は、水着の生地に初めて伸縮性のある繊維を取り入れ、水着が濡れるのを防ぐ撥水素材も開発しました。水着やアクセサリーに関する他のいくつかの特許を取得しました。
彼女のデザインは、そのフィット感で高く評価されました。また、水着にブラジャーを初めて採用した人物でもあります。

彼女の会社は1950年代に大成功を収めました。ローズ・マリー・リード社は、その衣服の装飾的な魅力だけでなく、泳ぎやすい実用的な機能を備えていたことから、女性用水着の最大手メーカーになりました。彼女の水着の人気は、ハリウッドや映画業界によって牽引されました。リタ・ヘイワース、マリリン・モンロー、ジェーン・ラッセル、ロンダ・フレミングといった有名女優たちが彼女の水着を着用しました。
彼女の水着ラインはハリウッドの魅力を体現し、南カリフォルニアのビーチカルチャーの若々しいスピリットを捉えていました。彼女の名は全米に知られ、彼女の水着はハリウッドの人気映画のように世界中に輸出されました。

ハイレグは開発していない
アメリカのローズ・マリー・リード社が「ハイレグの起源」とする説がありますが、これは間違いです。ローズ・マリー・リードがハイレグ水着を開発した事実は全くありません。それどころか彼女のポリシーに反しています。
実は、彼女は、ワンピース水着よりも肌を露出した水着を「慎み深さ(modest)」が無いなどと主張し、ビキニやその他の露出度の高い水着(immodest bathing suit)のデザインを断固拒否しているのです。1959年のMiami Newsの取材で「基本的にアメリカの女性は慎み深く、露出度の高いビキニは受け入れられないだろう(basically too modest to accept)」と述べています。

彼女は革新的な水着デザイナーでしたが、残念ながら、1960年代以降の水着の変革を予期できなかったのです。
彼女の水着事業は1960年代のビキニブームで低迷し、1963年に彼女は自らの会社を去りました。マンシングウェア社(Munsingwear)がローズ・マリー・リード社を買収し、ローズ・マリーの名前で水着の製造を継続しましたが、1965年までに水着の事業を中止しています(現在は商標がライセンス供与され製造されているが彼女とは無関係)。
Rose Marie Reid(アメリカ合衆国・ブリガムヤング大学)
https://exhibits.lib.byu.edu/rose-marie-reid/
1970年代:ナディア・コマネチ
スポーツ界では、1960〜70年代に動きやすさとスピードの向上のためにハイレグのユニフォームが開発され、女性アスリート向けの競泳用水着や体操用レオタードとして登場しました。
1976年のモントリオール夏季オリンピックで、ルーマニア出身の体操選手ナディア・コマネチ(Nadia Elena Comaneci、1961年11月12日 – )は体操競技で金メダル3個を獲得しました。当時14歳だったコマネチは、純白のハイレグ型レオタードを身に着け、可憐な容姿や見事な技で観衆を魅了しました。


1980年代:ビートたけし(北野武)
東京都足立区出身のお笑いタレントで映画監督の「ビートたけし」こと北野武(Takeshi Kitano)は、1980年、せんだみつおと楽屋で雑談中に、ナディア・コマネチ選手のハイレグレオタード姿から着想を得た「コマネチ!」のギャグを開発しました。
「コマネチ!」は、ビートたけしの代表的な一発ギャグとして1980年代前半に日本国内で大流行し、後述の「ハイレグブーム」のきっかけとなりました。

ギャグ誕生から31年… たけし、コマネチと初対面(eiga.com inc)
https://eiga.com/news/20111013/14/
ハイレグ水着の歴史とハイレグブーム
1978年:ギデオン・オバソン
ハイレグ水着の発明者
イタリア生まれのイスラエル人ファッションデザイナー、ギデオン・オバソン(Gideon Oberson、ギデオン・オーバーソンとも言う)は、1970年代から自身のブランドを立ち上げ、スイムウェアやプレタポルテ、イブニングドレスなど多岐にわたるコレクションを展開しました。
1978年(昭和53年)、脚を長く見せる「ハイレグカット」の斬新なデザインの水着を発表し、イスラエルのモーシェ・ダヤン外務大臣(当時)の自宅の庭で開催された展示会で、ギデオン・オバソンによるファッションショーが開催されました。
彼の発表した水着は、女性の身体の美しさを引き立てるデザインで注目を集めました。これが国際的に高い評価を受け、世界的に大ヒットし、同年には日本にもハイレグ水着が紹介されました。その洗練されたスタイルと革新的なデザインで、「中東のスイムウェア界の王(KING OF SWIMWEAR)」とも称されています。

1978年に発表されたハイレグワンピース水着の例
1978年(昭和53年)の展示会で撮影されたワンピース水着の写真です。



ハイレグ発祥の地
2002年から2009年にかけて、ギデオン・オバソンは高級水着ブランド「Gottex」のチーフデザイナーを務めました。美人コンテスト出場者向けの水着やイブニングドレスなどをデザインし、ブランドの国際的な地位向上に貢献しました。
Gottexはしばしばイスラエル最南端の都市エイラート(Eilat)で新作を撮影し、高級感のあるハイレグ水着を紹介しました。そのため、エイラートは「ハイレグ発祥の地」と呼ばれています。
1980年代:アズディン・アライア
チュニジア出身のファッションデザイナー、アズディン・アライア(Azzedine Alaia, 1935年2月26日 – 2017年11月18日)は、女性の身体にまとわりつくようにフィットするデザインにより、メディアからは「The King of Cling(まとわりつきの王)」と称されました。
ボディラインを大胆に強調するボディコンシャスな服(ボディコン)で知られ、ストレッチニット、ラテックス、ボディスーツ風ドレスなど、従来のドレッシーな服にないフィット感と大胆さをハイレグカットで実現しました。

アライア「女性の体を知るためには、女性に興味を持ち、女性を愛し、そして自分を忘れ去ることが重要です。自分を見ると何かを変えたくなってしまうので、私はいつも黒いチャイナ服という同じ格好をして、全神経を女性に集中させているのです」
「ハイレグはアライアによって始められた」という説がありますが、これは誤りです。ハイレグ水着の元祖は前述のギデオン・オバソンであって、アライアはハイレグではなくボディコンの元祖です。
【アズディン・アライア】ボディコンシャスを構築した、クチュールの巨人(elle)
https://www.elle.com/jp/fashion/fashion-column/a39951281/legendary-designers-azzedine-alaia-22-05/
1980年代:ハイレグブームの到来
日本では1980年代前半頃から、女性のワンピース型水着のデザインに取り入れられるようになった。エアロビクス、ボディビル、フィットネスの流行とともに、ハイレグレオタードが人気になりました。グラビアアイドルやテレビ番組での着用が増加し、性的魅力をアピールするアイテムとして認知され、バラエティ番組などで一般化しました。
さらに、バブル景気時代(1980年代後半から1990年代初頭)はハイレグ水着やハイレグ・レオタードの全盛期となりました。日本のセクシーアイドル、ハイレグアイドルたちが着用し、「ハイレグクイーン」(High-leg Queen)と呼ばれるアイドルも登場しました。

1990~2000年代:露出度のピークと沈静化
学校水着、水泳競技における女子選手用の競泳水着においてもスポーティなハイレグが主流になりました。
レースクイーン(Race Queen、RQ)、キャンペーンガール(Campaign Girl、キャンギャル)のコスチュームでは、腰骨の上までカットされたスーパーハイレグやTバックなど露出の高いデザインが登場し、ハイレグブームがピークに達しました。
しかし、1990年代前半のバブル崩壊と不況の影響で、ローライズやナチュラル志向のファッションが主流となり、露出過多なハイレグは徐々に下火となりました。例えば、1993年(平成5年)には腰布の「パレオ」や水にぬれても透けない「白い水着」が流行しました。素肌を見せないファッションがはやり、ハイレグは「古い」「バブル時代的」と見なされる傾向になりました。

2010年代〜現在
最近、多くのファッションブランドが、ハイレグ水着を現代風にアレンジした新作を発表しています。例えば、Luli FamaやSummersaltなどのブランドが、脚を長く見せる効果や体のラインを美しく見せるデザインを取り入れたハイレグ水着を展開しています。
また、懐かしさやレトロブームにより、ハイレグ水着が再注目され始めています。コスプレ界隈やSNS、VTuber、アニメ・ゲームキャラの衣装として活用されています。

TRENDY HIGH CUT(Luli Fama MIAMI)
https://www.lulifama.com/collections/high-cut
補足
中国にはなかった
現在で言うハイレグという形状の衣装が「少なくとも1400年代から中国で確認されている」との説がありますが、これは完全に間違いです(出典も全くのデタラメ)。
アジア地域においてハイレグに類似する、脚ぐりの深い水着や露出の高い下着は近代以降に西洋文化が流入してからであり、歴史的事実として、中世の中国人女性がハイレグのような水着を着ることはありえません。
下着も「肚兜(ドゥードウ)」と呼ばれるキャミソール(胸を覆う布)を着用する程度で、脚や腰回りを見せる習慣はありませんでした。
