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水泳選手アネット・ケラーマンの功績(女子ワンピース水着とシンクロの発明)

オーストラリアの水泳選手で映画女優であったアネット・ケラーマンは、女性用ワンピース水着を着用して水泳をした歴史上最初の女性の一人として有名です。また、女優として水泳スタントを演じた経験から、競技としてのシンクロナイズドスイミング(現在のアーティスティックスイミング)を発明して、その普及に貢献しました。

幼少期のアネット・ケラーマン

アネット・ケラーマンAnnette Kellerman、本名Annette Marie Sarah Kellermann、1887年7月6日-1975年11月5日)は、オーストラリアのニューサウスウェールズ州、シドニー近郊の音楽家の家庭に生まれました。

父親はオーストラリア人のヴァイオリニスト、フレデリック・ウィリアム・ケラーマン、母親はピアニスト兼音楽教師のフランス人アリス・エレン・シャルボネです。父親の名前がドイツ語由来であるため、彼女の名前は「n」が2つ付く場合もあれば、英語化されて1つだけになる場合もあります。

ケラーマンは6歳から水泳を始め、15歳までに当時のあらゆる水泳スタイルを習得しました。この頃、彼女は飛び込み競技にも出場していました。1902年、ニューサウスウェールズ州女子水泳選手権の自由形100ヤードと1マイルの両方の種目でそれぞれ1分22秒、33分49秒という当時の新記録で優勝しました。

1900年当時のアネット・ケラーマン(水泳選手兼飛び込み選手)

アーティスティックスイミングの発明

1902年、ケラーマンが16歳の時に、両親はオーストラリア・ビクトリア州メルボルン、メントーン(Mentone, Victoria)に引っ越すことを決め、彼女はスポーツのためというよりは家族を支えるために(両親は音楽家で当時仕事が見つからなかった)、公の場で何度も水泳とダイビングのパフォーマンスを行いました。

参考リンク

Mentone’s Million Dollar Mermaid(オーストラリア・ビクトリア州 Kingston Local History)
https://localhistory.kingston.vic.gov.au/articles/232

メルボルンでは、水泳の技術をさらに向上させ、スキューバダイビングをマスターし、水族館に雇われ、人魚としてパフォーマンスを披露しました。水族館の魚で満たされた大きなガラスの水槽で毎日2つのショーで泳いでいました。人々は彼女のパフォーマンスに興奮しました。

1905年8月24日、19歳だったケラーマンはロンドンに移り住み、イギリス海峡横断水泳(ドーバー海峡横断)に挑戦しました。そして、1906年、ケラーマンはロンドン・ヒッポドローム劇場で水中パフォーマンスを披露しました。

有名なワンピース水着を着たケラーマン、1906年頃

1907年、アメリカ・ニューヨークで「世界初の水中バレエ」とされる演技を披露したことから、シンクロナイズドスイミング(アーティスティックスイミング)の発明者として広く知られています。アメリカの新聞は「若い水泳選手の優雅さ」を称賛しました。

女性用ワンピース水着の発明

プロの水泳選手であり、水中ダンサーであったケラーマンは、女性の水着改革を訴えた人物でもあります。彼女はワンピース水着を着た最初の女性の一人であり、当時大きなスキャンダルを引き起こしました。

ワンピース水着を着用する女性の権利

ケラーマンは、女性のワンピース水着着用の権利を主張したことで有名です。

1900年代初頭、女性は水泳の際に、足首以外を覆うロングスカートとタイツが付いたかさばるビーチドレスを着用するのが一般的でした。

彼女は水泳選手として水泳のパフォーマンスを最大限に高めるために、腕、脚、首が露出が露出し、肌にぴったりとフィットする水着を着用していました。ケラーマンの身体にぴったりフィットするワンピース水着は、彼女がイギリスから取り入れたもので、当時の男性用水着を彷彿とさせるデザインでした。

水着を着たアネット・ケラーマン本人、1900年代後半か1910年代前半

マサチューセッツ州で逮捕される

1907年、人気絶頂だった彼女はアメリカへ移り、シカゴやボストンなど多くの場所で舞台に立ちましたが、ボストンでの出演がトラブルの種となってしまいました。男性用水着にストッキングを縫い付けて作ったワンピースの水着を着て、ボストンの近くの、マサチューセッツ州リビアの海岸を歩いていたところ、わいせつ罪(露出行為の疑い)で逮捕されました。

その後数週間、全国の新聞が裁判の模様を報道しました。逮捕は広く世間の怒りを招き、ワンピース水着の受容に拍車をかけました。

アメリカ国民の世論

彼女は裁判の中で自身の行為を正当化しました。不便な衣服のせいで泳げないと女性は泳ぎを習得するチャンスがないと裁判官に主張しました。

実は、この裁判の3年前、1904年6月15日に遊覧船ジェネラル・スローカム号General Slocum)がニューヨーク・イースト川を航行中に火災を起こし、1,031人が死亡する事故が起こっていました。

犠牲者のうち座礁による溺死者のほとんどが女性と子供だったことから、女性用ワンピース水着の着用は、女性と子供が水泳を習得することで状況によっては命を救うこともできるという「技術的な必要性」に基づくと主張しました。

旅客蒸気船ジェネラル・スローカム号の大惨事(アンジェロ・アゴスティーニ『オー・マーリョ』1904年)

そして、当日はスキャンダルを起こすのが目的ではなく、プロの水泳選手としてトレーニングを楽にするために水着を選んだのだと強調しました。裁判官は彼女の主張を認め、無罪を言い渡しました。

しかし、裁判官は、水着の着用は一定の条件の下でのみ許可されると宣言した。つまり、選手が水に入る前に水着の下に黒のレギンスを着用し、脚は公衆の目に晒されないようにし、ケープによって肩も覆われていなければならない、としました。

ケラーマンが1909年に制作した短編映画に合わせてニューヨーク市で撮影されたと思われる。自らデザインした水着を着て飛び込み台に寄りかかっている。

水着ブランドの立ち上げ

彼女はこの裁判の終結後、彼女のワンピース水着は有名になりました。多くの女性にインスピレーションを与え、水着を着ることに対する従来の認識に挑戦するきっかけを与えました。そして、レギンスと短いスカートが付いた女性用ワンピース水着をデザインし、販売しました。この水着は非常に人気となり、すぐに売れ行きが好調となりました。

女性用ワンピース水着の人気を受けて、彼女は独自のワンピース水着ブランド「アネット・ケラーマン」を立ち上げました。それは現代の水着への第一歩でした。

1914年3月のMotion Picture誌に掲載された減量プログラムの広告に出演したアネット・ケラーマン

ワンピース水着の進化

1913年、この画期的な発明に触発され、デザイナーのカール・ジャンツェンCarl Christian Jantzen)は、下はショートパンツ、上は半袖のぴったりとしたワンピース水着を初めて製作しました。

1920年6月に女性向けファッション誌「ハーパーズ バザー」(Harper’s BAZAAR)は「アネット・ケラーマンの水着は、比類のない大胆なフィット感の美しさと、常に洗練されたデザインが特徴です」と書き、ケラーマンの水着を賞賛しました。1921年6月に同誌は、この水着は「完璧なフィット感と、絶妙で造形的なラインの美しさで有名」であると記しました。

アネット・ケラーマンは1975年11月6日に亡くなりますが(後述)、彼女の死後、1978年にハイレグ水着が開発されるなど、さらに女性用ワンピース水着は進化していきました。

ハリウッド女優、作家活動その他

100万ドルの人魚

幼い頃から公の場に出る習慣があったケラーマンは、オーストラリアの人魚とダイビングヴィーナスとして、アメリカのショービジネス界に入ることを決意しました。

映画『神の娘』(1916年)の衣装を着たアネット・ケラーマンの写真

1908年、ハーバード大学のダドリー・A・サージェントは3000人の女性を対象にした研究の結果、ケラーマンの身体的特徴がミロのヴィーナスに似ていることから、彼女を「完璧な女性」と名付けました。これに対して彼女は「首から下だけよ!」とユーモラスな返事をしたと伝えられています。

1916年、彼女はフォックス映画社が制作した映画「神々の娘A Daughter of Gods)」で全裸のヌードシーンを演じました。

1916年フォックス映画映画『神々の娘』 のスチール写真、全裸で木に登り腕を広げるアネット・ケラーマン

「神々の娘」は、重要な身体部位は控えめに覆われていたものの、人物(男性または女性)が完全に裸で登場した最初のハリウッド映画と考えられています。100万ドルの予算で制作された初めての映画だったことから、彼女は「100万ドルの人魚Million Dollar Mermaid)」と呼ばれました。

1916年フォックス映画製作の映画『神々の娘』 のスチール写真または宣伝写真

作家としての執筆活動

映画や舞台での活躍に加え、ケラーマンは「泳ぎ方」(1918年)、「肉体美:それを保つ方法」(1919年)、児童文学「南の海の童話」(1926年)、そして未発表の自伝「私の物語」など、数々の著書を執筆しました。

また、「美しい体」という題名の、健康、美容、フィットネスに関する通信販売用の小冊子も多数執筆しました。

ワンピース水着を着たアネット・ケラーマン。1918年にニューヨークのGHドラン社から出版された著書『Physical beauty, how to keep it.(肉体美、それを保つ方法)』の挿絵として、様々なポーズで撮影した自身のスタジオ写真を複数枚制作しました。オーストラリア国立海洋博物館所蔵のコレクション。

私生活

ケラーマンは1912年11月26日、コネチカット州ダンベリーでアメリカ生まれのマネージャー、ジェームズ・サリバンと結婚しました。

第二次世界大戦中、彼女はオーストラリアに戻り、クイーンズランド州で赤十字社で働き、州に駐留する兵士たちを昔のショーで楽しませていました。彼女は老年期まで活動的な生活を送り、死の直前まで水泳や運動を続けました。1975年11月6日、オーストラリアのクイーンズランド州サウスポートの病院で89歳で亡くなりました。彼女の遺骨はグレートバリアリーフに散骨されました。

殿堂入り

1960年8月2日、ケラーマンは映画産業への貢献により「ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム」(Hollywood Walk Of Fame)に星型のプレートが設置されました。

参考リンク

Annette Kellerman(ハリウッド商工会議所)
https://walkoffame.com/annette-kellerman/

1974年にはフロリダ州フォートローダーデールの「国際水泳殿堂」(International Swimming Hall of Fame and Museum、ISHOF)入りを果たしました。

1999年11月24日、「スポーツ・オーストラリア殿堂」(Sport Australia Hall of Fame)入りを果たしました。2001年、オーストラリア・ビクトリア州出身の女性の功績を称える「ビクトリア州女性名誉殿堂」(Victorian Honour Roll of Women)の名簿に登載されました。

参考リンク

Annette Kellerman(スポーツ・オーストラリア殿堂)
https://sahof.org.au/hall-of-fame-member/annette-kellerman/

Annette Kellerman(オーストラリア・ビクトリア州女性名誉殿堂)
https://www.vic.gov.au/annette-kellerman

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