女子も狩猟をしていたらしい
男性=狩猟と考えられてきた
約600万~500万年前に二足歩行できるようになってから農耕が開始された新石器時代までの間、人類は狩猟採集社会であったと考えられています。
そして、人類学者や考古学者たちは長い間、男性=狩猟、女性=採集という分業制があったと考えてきました。男女の役割は生物学的に決まっており、走って獲物を追い、石を投げ、格闘するのは「男の仕事」と考えられていたため、そこから派生してできたスポーツも当然、男のものと考えられてきました。この考え方は、19世紀以降に残存していた狩猟採集の部族が男性中心の狩猟を行っていたことが理由となっています。
最近の研究で常識が覆された
しかし、ごく最近の研究によると、世界中のほとんどの狩猟採集社会において女性も狩猟に参加していたことが判明しました。母親が幼児を狩りに連れて行くケースも確認され、「女性が狩猟に参加するのは出産と育児に支障をきたす」といった考え方は否定されました。
また、女性は単に狩猟に参加するだけでなく、女性用の道具を開発し、女性が集団で戦略的、組織的に獲物を狙い、小動物だけでなく大型動物も狩る熟練した技術を持っていたこと、さらに積極的に指導にもかかわっていたことも分かりました。「女は出産に影響するので静かにおとなしく生活していた」というのは全くの誤りで、男性と同じように激しい運動や戦いをしていたのです。
下図 Figure 1 は、女性ハンターが埋葬された墓を調査した研究者グループが、9000年前(紀元前7000年頃)の南米アンデス山脈における狩りの様子を描いたイメージです。女性がやり投げのような狩りをしています。
狩猟と戦いの女神ネイト
今から5000年前、紀元前3000年頃にエジプトのナイル川流域を統一した最初の王朝「古代エジプト第1王朝」が成立したと言われています。この頃、エジプト神話の女神ネイト(Neith)は、ナイル川三角州西部にある都市サイスの守護神として信仰されていました(Figure 2)。一説には、ナイル川の水源の神ともいわれています。
ネイトは狩猟と戦いの女神であり、軍神として戦士の武器を作り、戦士が死んだときにその遺体を守るとされていました。
しかし、古代エジプト初期王朝時代、農耕が盛んになると徐々に生活手段としての狩猟をすることはなくなりました。その後は、宗教的、儀礼的、娯楽的に行われたようです(Figure 3)。
古代エジプト王朝の女子スポーツ
旋回運動
古代エジプト王朝時代の女子は、日常生活においていろんな運動をしていたことが知られています。
例えば、ナイル川下流西岸にある古代エジプトの王墓群サッカラにあるメレルカの墓には、当時の生活の様子を描いた壁画が残されています。メレルカは、古代エジプト第6王朝テティ王の高官で、テティ王の娘の夫です。メレルカの墓はテティ王のピラミッドの近くにあります。
そのなかには、2人の女子が真ん中に立って、2人の女子を円を描くように回転しているアクロバティックな運動をしている絵があります(Figure 4)。このような運動は単なる遊びではなく、宗教的な儀式または踊りであった可能性もあります。
ジャグリング
ナイル川東岸にあるベニハッサン村の遺跡では、39基の岩窟墓(天然の岩盤の壁に横穴を掘って埋葬した墳墓)が発見され、古代エジプト第11王朝~第12王朝時代の壁画が多数残されています。その中には、レスリング、重量挙げ、弓矢、跳躍などの当時のスポーツが描かれています。
下図 Figure 5 は、ベニハッサン遺跡第15号墳墓(古代エジプト第11王朝の役人バケット3世の墓)の壁画で、女子が複数のボールを空中に投げ上げたり、女子の上に女子が乗ってボールを投げる様子が描かれています。これまで発見されているジャグリングの歴史的資料としては世界最古のものです。
悩殺ダンス
古代エジプトではダンスは娯楽だけでなく、宗教的行事(祭り、宴会、葬儀など)でも披露されました。ダンスはエジプトの宗教儀式における主な表現手段であり、死後の世界を表現したり、古代の神話を伝承する手段でした。ナイル川の盛衰に関する謎と秘密の教義はダンス表現によって伝えられました。
さらに、古代エジプト新王国時代(紀元前1500年~1000年頃)以降になるとダンスはより洗練され、エンターテイメントとして、夕食時の娯楽や社交的な場で主人や客人にダンスを披露しました。さまざまな国から奴隷がエジプトにやって来るにつれて、彼らのダンススタイルが融合されました。
下図 Figure 6 は、古代エジプト第19王朝時代に描かれたもので、トップレスで踊る女子ダンサーです。手の込んだ独特な髪形とイヤリングをした女子が、乳房を強調するようにブリッジをしてエロティックなダンスを披露しています。このような女子ダンサーの絵は墳墓や寺院の壁にも描かれています。
女子戦闘集団アマゾーンとトロイア戦争
アマゾネス
現代においても女性優位の部族はわずかに存在していますが、紀元前の世界では女性の地位が高い社会が数多くありました。
そのなかでも、アマゾーン(Amazon)は女子のみで構成された戦闘集団で、ヨーロッパの黒海沿岸周辺に実在した母系部族をモデルとしてギリシア人が誇張した姿と考えられています(Figure 7)。アマゾーンは馬を飼い慣らしていた騎馬民族で、戦闘を得意とする狩猟民族だったと言われています。ギリシア神話では多くの戦闘に参加しています。
現在では、アマゾーンまたはアマゾネス(amazones)は、野性的で強い女を意味する言葉としてよく使われています(Figure 8)。
トロイア戦争
ギリシャ神話のトロイア戦争は、青銅器時代(紀元前1700年~1200年頃)のアカイア(ギリシア連合)とトロイアの戦争です。アマゾーンの女王ペンテシレイア(Penthesileia)は、トロイア戦争の際にトロイア軍側について戦いました(Table 1)。
ペンテシレイアは敵の名だたる武将をなぎ倒して暴れまわりましたが、敵の男戦士アキレウスに1対1の勝負を挑み、命を落としました。その後、トロイアとアマゾーンは有名な「トロイの木馬」作戦によって壊滅しました。
このように、女子中心で構成された戦闘集団(部族)や狩猟民族は初めから存在しなかったのではなく、部族同士の戦いのなかで男の軍隊に敗れて壊滅していった、つまり淘汰されたと考えられます。
ちなみに、トロイア戦争ではアカイア側は勝ちましたが、アキレウスは戦闘中に「アキレス腱」を負傷して戦死しました。
古代オリンピックとヘライア
古代オリンピックの由来
古代オリンピックは紀元前776年に始まったとされていますが、その元となったオリュンピア祭の由来は諸説あります。一説によると、トロイア戦争でなくなったパトロクロスの死を悼むため、親友のアキレウス(戦死する前)が競技会を行ったのが由来とされています。
ヘライア祭
古代ギリシャでは、オリンピックとは別に女子選手のみが参加するヘライア祭が開催されていました。
ヘライア祭は女神ヘラを崇めるイベントですが、女神ヘラはトロイア戦争でアカイア(ギリシア連合)側についたという逸話が残っています。つまり、女神ヘラが、女子戦闘集団であるアマゾーンを撃退したのです。やはり、いつの時代も「女の敵は女」なのです。